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「園部」のおこりは、和同年間ごろ、この地方一帯が米づくりに適した肥沃な土地のため、大和朝廷の荘園として飯米づくりを担った「部」(職業集団)であったから、とされています。
江戸時代に入って、元和5年(1619年)に小出吉親が園部城を築き、以来、3万石の城下町として栄え、山陰道の交通の要衝、口丹波地域の政治・経済・文化の中心地とされてきました。
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国道9号線から園部町役場を通りすぎ園部高校までの間に、
「園部公園」があります。そこには大きな城があるのですが、
これは「園部国際交流会館」です。
園部城跡はその先の園部高校のところです。
その正門が、園部城本の丸表門(櫓門)、その側に建つ二層
の巽櫓が現存する遺構です。
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これが上の説明で出てくる「大きなお城」の「園部国際交流会館」です。まさにお城です。中には、喫茶店などもありますので、ご休憩にぜひどうぞ。
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園部町黒田にある黒田古墳です。全長52メートルの前方後円墳です。園部町市街地から船岡・るり渓方面へ続く道を走ってると右手に道標がありますので、見逃さないようにして下さい。
この写真はある会社へ続く道を入った方から撮りました。
ぶらりとぴこぞうが行ってます
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内林町東畑にあったそうです。現在はこの碑が内林厄神内に立っているだけです。垣内古墳は前方後円墳で、全長84mだったそうです。
出土品として三角縁神獣鏡や車輪石、勾玉、管玉などがあり、重要文化財に指定されています。
古代史的には大変貴重な古墳だという事です。
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ここでは園部(そのべ)に関するいろいろな情報をご紹介します。
整理されていないのがミソ?探す楽しみを味わってください。
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▼園部藩 小出秀政とその長男の吉政は、関ヶ原の戦いで西軍につきましたが、秀政の二男の秀家が東軍として活躍、そのため、秀政、吉政も許され、但馬出石の6万石の旧領を安堵されたそうです。
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その後、秀政の死後、吉政は岸和田に移りましたが、出石領はそのまま長男の吉英が領することを許されました。吉英が岸和田を継ぐと、出石領は吉英の弟、吉親が別家として継ぎました。
しかし、その後兄吉英が但馬出石に移されることとなったため、弟の吉親は丹波園部へ移り、園部藩が成立しました。
但馬出石の宗家はその後、無嗣断絶してしまいますが、園部藩の小出家は一家支配のまま、幕末まで園部を領しました。
■園部藩歴代藩主
初代 小出吉親(よしちか)
二代 小出英知(ふさとも)
三代 小出英利(ふさとし)
四代 小出英貞(ふささだ)
五代 小出英持(ふさよし)
六代 小出英常(ふさのぶ)
七代 小出英筠(ふさたけ)
八代 小出英発(ふさおき)
九代 小出英教(ふさのり)
十代 小出英尚(ふさなお
九代藩主小出英尚(ふさなお) ・・・肥前大村藩主大村純昌の子
十代藩主小出英尚(ふさなお) ・・・慶応3年12月藩主小出英尚は入京して、市中見廻役をつとめていました。鳥羽・伏見の戦いには参加しませんでしたが、情勢によっては明治天皇を園部城へお移しするという新政府の戦略に応じて翌年1月から城郭の緊急改造を行ったそうです。
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▼園部町の歩み
現在の園部町はかなり広いですが、最近話題になっている「市町村合併」の明治版・昭和版とも呼べる町村合併により誕生しました。
ここでは、その歴史を少し振り返ります。
現在の園部町を構成している町村はもともと、
園部町、園部村、桐ノ庄村、川辺村、摩気村、西本梅村、東本梅村
の7町村に分かれていました。
■年表
明治35年ごろ 園部町、園部村、桐ノ庄村合併議論が始まる
昭和4年4月 園部町、園部村、桐ノ庄村が合併し園部町に
昭和20年代前半 園部町、川辺村、摩気村、西本梅村、東本梅村の5町村合併を理想として協議が進められるが、見送り。
昭和26年4月 園部町と川辺村が合併し園部町に
昭和20年代後半 摩気村、西本梅村、東本梅村の3町村合併が規模的に無理なことなどから、園部町を交えて合併協議される
昭和30年4月 園部町、摩気村、西本梅村が合併し園部町に
昭和33年4月 亀岡市東本梅村若森・南大谷を園部町に編入
※東本梅村は様々な理由により、園部町編入を望む園部派と亀岡市編入を望む亀岡派に2分されました。結局、園部町編入を強く望む地域は速やかに園部町への編入を約束したうえで、昭和31年に一旦亀岡市に編入されました。
いよいよ、園部の合併も目の前に近づいてきましたね。一体どんな街になるのか?住み良い街であれば良いですね。住み良い街にしないとね!
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